昭和42年05月08日 朝の御理解
物が成長する為には必ず節がございます。それは物、植物、事柄一切の上にそれが云えると思います、必ず節がある、節なしには成長は致しません、例えば椛目から合楽えと、椛目にああして道が開けだしまして、十六年間、十六年間の間に、もう定期的にと云う位に必ず節があった。
その節の度にお広前が拡張された、信者はその都度に増加してまいりました。ですからいかに節と言う物を大事にしなければいけないかと、是は私共の人生の上においてもそれが云えます。振り返ってご覧なさい、あの時が節だっただろうと、あれが節だったと思う事が御座います。そしてその節を大事にしておる時には必ず、その節から成長しております。その節から伸びております。
又、その節から枝が出ております、芽が出るのですよ。ところがその節を、いうなら、好い加減にするというか、その節から挫折するというか、その節に、へこたれておると言う様な時には、もうそこで止まっております。これは、全体のものなのですから、節があるという事は、ですから、その節をですね。特に、信心の成長と言われますが、信心が成長して行くというのはですね、皆さんが、一番願っておられるところの、おかげが成長して行く事なんですよ。
昨日どなたでしたですかね、お話された事ですけど、本当に神様のお働きの間違いなさに驚き かつ有り難いと思います。と云うておられましたが、確かにおかげを頂いておられますけども、その方が云われるのに、私が見ておるのに成長があってないですね。確かに、例えば百円なら百円のその日暮しが出来るという事。その日暮しが出来る事は、素晴らしい事なんです。
神様がお生かし下さっておるんだなあ、神様の御守護の中にあるんだなあ、百円なら百円の信心が出来るとです、もう百円だけはどのような場合でもおかげ下さる。百円のその日暮しが出来る様になったら次には、五百円のその日暮しが出来る様にならなければならん。五百円のその日暮しが出来る様になれば、千円のその日暮しが出来る様にならなければ、うそなんです。
いや成長があって、あっているとは言えない訳なんです。そこにです、日々の神様の働きの、間違いなさと云う事と同時にです、私共の育って行くところの姿というものがです、育って行くに従って、そのおかげを受けていく、範囲というのが広う又は大きく、又は、あかぬけして、いかなければならんです。ですから、ただ間違いのない、神様の働きは、間違いないなあという、間違いのない働きを受けておると、いうだけでは、成長とは云えない、それも有難い。
それが限りなく進展して行く信心に、限りなくお育てを頂かせて頂くところの信心。それには限りないおかげが、伴って来なければ駄目なんです。そこで私共はその進展を見るときに、成長を見る時に必ず節があるという事。これはけいこ事、一切の事の上にも云えると思う。何のけいこを致しましてもそうです、いわゆるスランプ状態というのがあります。あれが節です野球でも、お茶、お花の稽古事に至るまで、必ず節があると思う、私最近あの、お花の事について思うんですけどもね。
久留米の石井さんですね、薫さん、この人の花は一番始めの頃から、素晴らしかった、お師匠さんも、こういう弟子を、自分の思う様に育てられたらと、言う風な意味の事を云うておられたという事ですが、それは娘時代素晴らしかった。現在子供が何人も出来て、稽古も出来ませんでしょうから、確かに後退しておりますけどね、けれども最近あの人の花を見ておると、後退した様にあるけれど、進んでおると思うんです。
なんとなく、ぼんやりと 漠然として来たのですね。今迄はあの人の花を見ると。ぱっと人目をひかなおかん、心を捉えなおかん。と言った様な物が感じられたんですけど。此頃それが無くなったんですけれども、なんとはなしに漠然と大きくなっとる。花が、だからあれに専念されたら、素晴らしいものがあろうと、いわゆる現在そういうスランプに行き当ってるんですけれど、このスランプを突き抜ける程の修業とか、稽古なんかに出来ない状態にあるものですから、ね。
止どまってしまう事は惜しい事だなあ、薫さんの花が落ちたなと。云われ乍らお終いにならなければならないという事です。私から見るとおしまいじゃない。花の中にあの人の持っているセンスが、フルに生かされる様になったら素晴らしかろうと、こう言う風に思うのですが。お花だけではありません、信心でもそうです、先日も企画の人が集まりました時に、今度、総代会と、菊栄会の方達で御座いましたが。
私、菊栄会の方達に云うんですよ。まあいうならばこの人はと、私は目を、いわば私が目を付けたから。おかげ頂かないのかも知れんのですが。その人に対して一つの期待というかね。頼もしいものをめいの信心の上に感じたけれど、最近それが、あんた方に無くなった。何故かというと、結局はね。節を大事にしないからだと、もうあの位信心が解る、あの位信心を進めておるので御座いますし、皆さんご承知の通り企画の集いで御座いますからね。熱心にあるんです。
熱心にあると必ず節があるんです、その節を難儀と思うのです。例えばいつか高芝さんが云うておられた、あの御理解のように、シャンソン化粧品なんです。しゃんとすれば損をするという感じですね、信心がしゃんとするとですね。見た目には損の様な感じの節があるね。そこを、いよいよ自分自身の心の信心の化粧と、云う様な事になってくれば。そこから徳が受けられ、力が受けられ、おかげが受けられるのですが。
そのしゃんとすれば損をするものだから、ちょっとそこで二の足を踏んだり、そこでうろうろしていなきゃならない。だから、それ以上の信心が進まないじゃないかと申しました様にです。例えば私は、その打ち込む所に必ず成長があれば必ず又、次の成長を神様は願われる為に節がある。その節を私は大事にしてかなければいけない、確かに節は折れ易い、大事にしなければね。
本当に折れ易いというか、本当にもうへとへとという時があるんです。是から挫折するのではなかろうか、折れるではなかろうかと、自分で思うぐらいに、今きつい時なんです。そこのところを合掌して受けぬいて行くのです。教祖はそこの所を節とは仰っていないけれども、お試しという言葉をもって云うておられます。信心が進んで参りますと、必ず「神様のお試しがありますぞ」と仰ってる、お試しをお試しとしてです、ここに大事に受け抜いて行く所に、次の成長とおかげが待っているのです。
節は折れ易い、今日、私、御神前に出らして頂きましたらね、座ったとたんに頂きました事は、蓮根なんです。その蓮根の節の所は黒くて汚くて。役に立たないでしょうが、あそこの所は髭の生えた様に見苦しい。けどその節を大事にしなかったら、次のあの大きな蓮根になって来ないのですよ。はすに神様が蓮根食うて下さる、様なおかげと云う事を申します。それには私共がです、神様が今何を求めてござるか。
いうならば神様の心を解らせて貰うて、神様の心に蓮根食うて行く様な信心をさせないかんと、今、親先生が何を求めて御座るか、親先生がどう思うて御座るか、その思いに添っていくという事、ですから神様も又私共の心の底を見抜いて御座るから、蓮根食うて下さる様なおかげを下さるんです。いわゆる信心も出来ませんのにおかげを頂いて、と云う事になるのです。神様が蓮根食うて下さるのです。
このお広前の御造営だってそうなんです。とても私共を、私を中心にして皆さんの信心がです、こういうお広前の信者であり、又は将来、私が教会長と云う事になりましょうが。教会長としての信心が出来ておるとは、どんなに思うても、思われません。私の信心が出来ておるから、是を頂いておるとは思われません。いうなら神様が蓮根食うて下さるというものですよ。そこに私共は、何時も神様の心に添い奉るありかた、昨日或る方が息子さんの試験を、警察官の試験なんです、中々いい信心をしてしておりますけれど、日頃は無信心なんです。
昨日、朝の御祈念に参って来ておられました。そして今日、日頃一向に御用出来ませんからと、昼頃まででもいろいろ、ここで御用させて頂いています。そして、お酒のお供えを持って来た。お赤飯を炊いてと言う様に、神様のきげんを取るんですね、日頃この人は無信心で寄り付きもせんどってから、たのむ時だけかいと、例え思うてもですね、いわゆる神様の心にすうっと入って来る、あるいは、なかなかおかげを頂くこつあいというか、おかしいですけど。
福岡の初代なんかは月次祭の時には、お参りが少ないとですね、月次祭を途中で止めておられたそうですよ、そして今日は神様の、ご機嫌が悪いき早うお神酒ば買ってこいと仰ったそうです、そうすると次々とお参りがある、と、だからそういう手を使えというのじゃないけれども、言わば神様の心に、蓮根食うて行く信心なんです。本当の事を申しますと、蓮根食うて、そうさして頂かなければ、おられないのである。
そうさして頂く事を、願う信心にならなければなりませんけれど、矢張り私共は、おかげを頂きたいのです、私今日蓮根を頂いて、特にその節のところを頂いたのがです、今日、ただいままで申しました全ての事、ね。信心する者の一切の上にあるものは必ず節だと。ですからその節を大事にせよという事を申しましたが、蓮根をもってお、知らせ下さったと言うところにです。
私共も神様の心に、蓮根食わなければならない様な事があるのだと云う事。同時に、神様はです、もう蓮根食うて下さる様なおかげを下さろうと願っておられる事と思います。私共此の様な信心が出来ておろうとは思われんけれど、此の様なおかげを頂いておる。是はまさしく神様が蓮根食うて下さっておるおかげなのです。ですからそういうおかげもです、言うなら本当のおかげじゃないというでしょうかね、そういう、例えばおかげの信心ですら必ず節はあると云う事。
信心を育てるとこういう事申しますが、信心じゃないおかげを頂いて行くという言わばご利益専門の信心でありましてすら、必ず節があると云う事ね。おかげおかげという、おかげを頂いてじゃないけれども、信心じゃないそのおかげの信心ですら、節があるという事。神様が蓮根食うて下さる様なおかげですら、節があるという事。ですからその節を私共が大事にしていこうとする願いと、その心構えというものが、お試しを受けましても、しゃんとすれば損をする様な事がありましても。
そこんとこは神様の御都合に違いはないと、そこを合掌して有難く受け抜いて行く、と云う事。受け抜き、受け抜いて行く所から、次の大きな節が育って行くのです。皆さん此の節をどうぞ大事になさらなければいけません。大概の人が此の節で、おどおど致します、いわゆるお参りもしょうごとなかったり、なんとはなしお話を頂くのに倦怠を感じたり、もうスランプ状態なんです。
だからスランプ状態であると云う事は、もうそこまで成長している事なんです。もうおかげ真近と言う所なんです、そのスランプ状態を抜け切れば、今迄感じ切れなかった、今迄頂けなかったおかげなり、また業の上でいうなら、その次の業が体得出来る時なんです、ですから節を大切にしなければなりません。私は是は昔からでしたけれど、いわゆる座右の銘に、私の机の所に必ず短冊に書いて貼っておきます。
「節を大事にする人は伸びる」と何時もそれを確信しています。節を大事にしている人は必ず伸びます。 お互いお育てを頂いておるというけれども、こちらが育てて頂きたいという願いを持たなければなりません。神様が育てて下さるだけではありません。私共が育てて頂きたいという、願いを持たせて頂くと云う事がです、節を大事にして行く事ではないかと思うですね。
どうぞ